心のゆくえ1



3月のまだ冷たさが残る夜風が、火照った肌に心地よい。
前にも後ろにも人はおらず、満開の桜並木を独占状態というのはちょっとした贅沢だ。
数日前に遡る自分の卒業式の日、早咲きの桜は五分ほどだったが、それなりに綺麗だった。
けれどこの夜、月光淡い夜闇によって薄墨色に染まった花は今が盛りと咲き誇り、尽きることなく花弁を散らせている。そうして舞った花びらは、足下で踏みしだかれ、地の色をいつもと異なるものにしていた。
風がそよぐと、一際散る花が増す。
ひとたび風が吹けば、花嵐も楽しめそうだ。
目の前を舞った花びらをつられて追うと、足元で渦を巻いて地面に落ち、先に散った花びらに紛れて見分けが付かなくなった。
おそらく自分の頭にも何枚かのっているに違いない。
頭を前に傾け、ふるふると横に振ったら、案の定落ちていく。
けれど、どうにも耳の辺りがくすぐったく、さらに頭を強く振ったら、後ろから笑い声が聞こえた。

「みぃ」

苦笑交じりに名前を呼ばれて、少々ばつが悪くなりながら顔を上げると、後ろを歩いていた弘毅が大股で隣に並んだ。

「じっとして」

そう言うなり、指が耳を掠める。ほら、と見せてくれた花びらは、そのまま下に落とされた。

週に一回、弘毅とこうして夜道を歩くのも三年になる。

美香の母は娘の身を案じたことから、弘毅との関わりは始まった。
美香が中学に入学すると同時に、近所の武道館で三歳から始めた空手も少年の部から一般の部に移り帰りが二十一時過ぎになった。愚痴の体裁をとりながらも、美香の母親が半ばに本気で相談を持ちかけた相手が、マンションの隣人であり、入居時からの友でもあり、美香の母に今の空手道場を教えた弘毅の母だった。彼女は、美香同様に幼い頃から空手を続けている弘毅が一緒に帰ればよいことだと、こともなげに決めた。確かに同じ道場でお隣さんならこれ以上ない条件だ。おまけに当時大学四年生になった弘毅は、既に段位を取得しており、番犬としては申し分ない。だが、そこには彼の都合は全く考慮されていなかったと、後になって聞いた美香は、迷惑ではないかと最初こそ恐縮したものだ。

「ありがとう。でも、そういう気遣いをするくらいなら、自分のカバンくらい自分で持ってよ。こーさんの道着は重いんだから」
「それはそれ、これはこれ」

弘毅がにやりと笑うと、道場で纏っていたどことなく冷たい雰囲気が消え、くだけた感じになる。
初対面の時には被っていた猫を早々に脱いだのは、私も弘毅も同じだ。もちろん、それなりに節度をわきまえ、過度な悪ふざけはしない。弘毅にしてみれば、九つも下の子ども相手に尽くす礼節なんて、その程度のものだということだろう。
一般の部に移るまで、美香の知る弘毅は、たまに少年の部で師範代として指導する姿を程度だったので、道場での凛とした姿とのギャップに最初のうちはとても違和感を覚えたものだ。
冷たい、と愚痴るが、特別重いわけではない。美香の肩にバッテンに袈裟掛けされた美香と弘毅のバッグの中身は、共に使用済みになった空手の道着とタオル、それから水筒といったところだ。

「それくらい大した重さじゃないだろう」
「そうじゃなくて、女に荷物持ちさせる男ってどうよ?」
「女?ガキが何言ってるんだか」

確かに弘毅の言うとおり、これくらいの荷物大した事はない。けれど体格差はもちろんのこと、美香より九つも年上で、道場においては師範代をやっている弘毅が、美香に荷物を持たせるのは納得しがたい。かつて中一だった美香が、今までほとんど縁のなかった弘毅を自分の都合に巻き込む形になった事に対し、お詫びの気持ちから荷物持ちを始めたにしても、だ。

「もうすぐ高校生なんだから、ガキじゃない」
「むきになって文句を言う辺りが、ガキだ」

反論を一蹴する弘毅を、今度は美香が鼻で笑ってやる。

「私のことをガキっていうなら、そんな私に荷物持ちをさせて平気なこーさんは、男としてどうかと問いたいね」
「一人前に男を語るか」
「おかげさまで」

言外にあんたの影響だと仄めかして、にこりと小首を傾げて笑いかけてやると、「本当に可愛くない」と弘毅が愉しげにメタルフレームの眼鏡越しに目を細めた。

「可愛い?なにそれ、こーさんってロリコンだったの?キモい。それじゃ、彼女なんて出来ないよ」
「誰がロリコンだ。第一、お前に心配されるほどじゃない」

全くダメージを与えられなかった悔しさ紛れに文句を言ったが、軽くいなされた。

「ひょっとして、彼女いるの?」
「さあな。ところで、お前はどこの高校に行くんだ?」

あからさまにはぐらかされ、変えられた話題はかなり今更な内容だ。
もう少し食いついて嫌がらせをしたい気もしたが、ガキじゃないと言った手前、それは大人気(おとなげ)ないので素直に高校名を教えることにした。地元では屈指の進学校だ。

「後輩か」

少しは褒めろと胸を張ってみたが、弘毅に感嘆も感慨もなく呟かれた。自分なりの努力相応の結果だが、世間一般で言う難関大学に席を置く弘毅にとってはその程度らしい。
あまりの素っ気無さに、正直拍子抜けを通り越して腹立たしさすら覚えてしまう。
無意識にそれが表情に出ていたらしく、不服そうな顔をするなと弘毅が苦笑した。慌てて顔を引き締めたが少しばつが悪くて、ことのほかにこやかに笑みを浮かべ、掌を弘毅へ向かって突き出した。

「何だ、その手は?」
「頑張った可愛い後輩にお祝いを」

空手でも高校でも後輩だからねと、指先を二度あおる。

「自分で言うな。……こっちは就活と国試でバイトが出来なかったんだから、高いものは無理だぞ」
「国試?」

首を傾げた美香に、やや呆れ顔の弘毅が、国試は薬剤師の資格試験のことだと教えてくれた。そう言われて彼が薬学部だったと思い出した。
言われてみれば、資格を取るための試験があるのはもっともなことだ。
いくら資格が学部名になっている程とはいえ、六年も学校に通って更に試験まで受けるなんてハードだ。そんなものを乗り越えてきたなら、高校受験なんてたかが知れているのかもしれない。
お疲れ様、と感心混じりにねぎらう。

「就職はどこにするの?」
「大学病院」
「は?」

弘毅が大学を卒業するという事実だけでもあまり意外なのに、就職先が病院、それも大学病院とは。

「白い巨塔?」

自分でも呆れるほどうすっぺらな認識に、案の定弘毅から溜息がもれた。

「……現実とドラマは違うからな。それと俺は医者じゃなくて薬剤師だから」
「それくらいわかってるって」

バカにするなと口を尖らせてから、ちょっとだけ態度を改め、仕事を始めたら空手はどうするのかと訊ねた。返ってきた返事は、続けたいが……と弘毅にしては珍しく歯切れが悪いもので、美香は訝しげに頭一つ高い弘毅を見上げた。

「何時に帰れるかもわからないし、夜勤もあるから何とも言えないな」
「どうなるか、やってみないとわからない?」
「ああ。だから、これからはおばさんに迎えに来てもらえ」
「過保護。あたしも黒帯なんだから、一人だって平気だよ」
「自分を過信するな。お前は女だろ」
「何それ。さっきは女じゃないって、ガキだっていったくせに。今更差別しないでよ」
「差別じゃなくて、区別。生物学的な性別の話だ」

こんな時だけ女扱いだ。
拗ねたくなるやら悔しいやらで睨みつけたら、小さく息をついた弘毅に、右の二の腕を掴まれた。

「――振り払ってみろ」

ほら、と促されるままに右腕を軽く揺すってみたが、当然びくともしない。そこで美香は自分の右腕に左手をかけて全体重をかけたり、ひねったりと足掻いてみても、やっぱり外れなかった。

「ちょっと、カバンが邪魔だから降ろす」

痴漢相手に待ては通用しないと苦笑する弘毅の声を無視し、足元にスポーツバッグを置いて再挑戦してみたが、結果は変わらない。悔しくていっそのこと蹴りでも入れてやろうかと思ったら、ぐっと引っ張られてバランスを崩した。

「ああ、もうっ。こーさんは鍛えているから……」
「悪い奴は一人とは限らないぞ。それに鍛えてなくても二人がかりで、ワンボックスと運転手がいたら?」

両腕ごと弘毅に抱きこまれる。
暫く足掻いてみたが無駄に体力を消耗するだけで何も変わらない。空手もへったくれもない――体格と力の差だ。

「このまま車に引きずり込んで、オーディオの音量を大きくして気配と悲鳴を誤魔化してるうちに、手早く口と手足にガムテープを巻かれたら、文字通り手も足も出ない」
「――っ、」

淡々と脅しを並べる弘毅に膝まで足でしっかり押さえられ、彼の爪先を踏みにじる事も出来ない。相手が素人だとしても、人数がいたら叶わないのは明白だ。
歴然とした差を受け入れて体の力を抜くと、弘毅の腕の力が少し緩んだ。

「過保護!」
「お前が甘いんだ。それに一人歩きになった途端襲われたりしたら、この三年間俺がついていた意味がなくなるだろ」

どうにもかなわないのが悔しくて、恨めしく見上げると、弘毅が美香の背中を宥めるように叩いて、くく、と喉を鳴らして笑った。
降参して素直に身を預けた弘毅の胸は広く、その腕はスッポリとこの身を包む。じかに伝わってくる弘毅の体温、規則正しく拍動する心臓の音。耳に残る低い笑い声。驚くほど肌に馴染んで居心地がよい。
そのままにするりと腕を弘毅の腰に巻きつけたら、弘毅の腕の力が僅かに強くなった気がした。それでも振り払われないのをよいことに、その胸に頬を摺り寄せると、弘毅の腕の力が、明らかに抜けた。引き離されると腕に力を込めしがみついたが、いつまでもその気配がない。いぶかしく思いながら顔を上げたが、街灯を背にした弘毅の表情は暗くて分からない。

「男相手にそんなことをしていると、誤解されて襲われるからやめろ」

やめろと言う弘毅の腕は美香を捕らえたままだ。
大きな手が背中を撫でる。
それはとても心地よかった。
服の上からなのがもどかしいほどに。
温かな拘束にうっとりと身を任せながら、美香も指先をそっと動かしてみる。シャツ越しに鍛えられた背中はしっかりとした張りが伝わってきた。

「誤解?」
「男を誘ってると勘違いされる」
「こーさんも?」
「……ああ」

歯切れの悪い答えと共に、ゆっくりと身体が離れていく。温もりを失い寂しく感じるが、だからと言ってどうしたいのかは茫漠としてまとまらない。

「わかった。これからは気をつける」
「……そうしてくれ」

それから二人して各々自分のバッグを拾い、互いに黙り込んだままマンションに着いた。エントランスの掲示板に貼ってある『痴漢引ったくり注意』のチラシが、嫌でも目に付く。
玄関前に立ったところで、いつもどおり『おやすみなさい』と言いかけ、忘れていた頼みごとを思い出した。これは口実でも嘘でもなく、母親から頼まれていた事だ。

「こーさん。明日通学路を教えて欲しいんだけど、いいかな?」
「ああ、明日なら一日暇だからいつでも来い」

美香は白々しいと自嘲しつつも、ありがとうと礼をし、今度こそ『おやすみなさい』と言ってバッグから家の鍵を出した。


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